JR西日本の失態に見る「仕事と会社の関係」

唐澤さんから

>「仕事が人生の目的」というのは「会社が命」という人と大差ないように思います。

 というコメントをいただいて、「仕事が命、会社は道具」というわたしの感覚とやっぱりずれている−−と思っていましたが、今回のJR西日本の失態を見ていると、「会社至上主義」はやっぱりおかしいと思います。

 事故が起きて、周辺の住民たちが自主的に救助活動に参加して、「野戦病院」と化していたときに、事故の電車に乗っていた運転士が、知らん顔で通常勤務に向かったとか、事故を知りながら、ゴルフやボウリングや韓国旅行に興じていたとか・・・この会社の人の感覚はどうみてもおかしい。
 この場合、JR西日本の社員の仕事の目的は、「お客さまを安全・快適に目的地まで運ぶこと」であるはずです。
 ところが、上記の失態をした社員の感覚は、「会社に指示されていることをする」という感覚だったと思います。他の担当がどうであれ、自分に直接指示が来て、出動などを命じられるまでは、ゴルフもボウリングも当然出来る−−と考えていたと思います。
 これこそ「会社至上主義」ではないでしょうか。
 ようするに、自分が会社の道具(歯車)であることに甘んじていて、自主的な判断をする感覚が麻痺している状態です。

 私の感覚は、人生の目的は「仕事」にあると思うのです。仕事とは、何かの方法で、他人を助けていこうと言うことです。物を作る、物を売る、サービスをする・・・それらはすべて「他人を助ける」行為です。その結果、商品の価格などの形で報酬がいただける。
 会社は、そういう「仕事」の道具であって、自分がやろうとしている仕事のレベルは会社を上回っている。
 私はそう思って仕事をしてきました。
 会社に感謝はしていますが、会社に従属しているのではなく、会社を時代に即した形に変えようとして頑張ってきました。
 会社は、私の仕事を認めてくれたこともあるし、認めてくれなかったこともあります。
 でも、私は認められなかったことを悔やんでいません。
 私のやったことの価値をわかってくれる人がたくさんいるからです。

 ということで、会社の何倍も大きい仕事をして、自分が納得できるレベルまで頑張って死にたいと思っています。
 若い人に「ライスワークに陥るな。仕事は「飯を食う」「お金儲け」のためにするんじゃない。社会を良くするのが絶対条件」と言っているのはそういうことです。

 JRの人の感覚は仕事人としては落第。会社人としては「その程度」のものだと思います。
 
 はっきり言います。「会社の言うことをやってるぐらいで、仕事をしていると言うな」です。もう一つ、「会社の言うことをやっていることに甘んじていると、役に立たない人間になってしまう」です。

 後者の解説は以下の通りです。
 会社は、社員を競争させます。課長になる。部長になる。役員になる−−そのことを通じて、最後にたった一人残る社長=勝者と、その他大勢の「社長になれなかった人」=敗者をつくりだします。
 社長になれなかった人は子会社に転籍させられたりします。
 でも。自主的に仕事をしてこなかった人は、子会社に移っても、親会社に「仕事を回して下さい」とお願いに行くのが関の山です。

 飼い猫になるな。野生の気持で頑張れ−−私は若い人にそう呼びかけています。

会社は愛すべき「道具」です。

会社を何と考えるか?

 世の中の人の考え方はおかしいのじゃないかと思うことが時々あります。
 その最たるものは「会社は誰のものか」という愚問です。
 ホリエモン騒動で、はしなくも、日本人の大半が「会社は従業員のもの」と
 考え、ホリエモンの「会社は株主のもの」という考えに違和感を覚えた訳ですが、
 私は、従来から「会社はお客様のもの」論を主張し、「お客様に見放された会社」について「従業員のもの」と思っても、「株主のもの」と主張しても、空虚だと言っています。
 
 私の友人の唐澤豊さんが、以下のように、個人のメールニュースに書いています。
 「会社経営はゲームか戦争か」という点では、唐澤さんの話に納得するところが大です。
 
  でも以下の話について、個人的に「異」を唱えます。
  
>仕事は生きるためにお金を稼ぐ単なる手段であると私は考えておりますし、
>欧米人は大体そうだと思います。
>日本人の中には仕事が人生の目的のように思い込んでいる人が多いのでは
>と感じます。

 私は「仕事が人生の目的です」とハッキリ言わせて頂きます。仕事ほど面白い
 「遊び」はないと思います。会社がスタッフや予算をつけてくれたら、ますます
 面白い−−そういう人間です。もちろん食うに困らないお金はいただきたい。
 
 皆さんは「仕事」は「会社にやらされるもの」と考えているのだろうと思います。
 私は「自分がやりたいからやるもの」が仕事だと思っています。
 それをやらせてくれるのが会社で、やらせてくれなかったら、私の創造的な意欲を
他の舞台で爆発させようと考えています。

 ということで、私は、「会社を道具として」仕事をしていくつもりです。
 そんなことを書くと「不遜だ」という人がいるでしょうが、日本人は会社を
 「お社=神社」のように神聖視するからいけないのです。
 ロッキード疑惑の時に、ある商社幹部が「会社の命は永遠です」という遺書を
 書いて自殺しましたが、これは全く愚かなことです。会社ごときに命を預けては
 いけません。会社は道具だからこそ愛すべき存在なのです。
 
 まあ、大事なことは、人生が楽しくなければならない。ということで、やっぱり
 私は「仕事は遊び、遊びは仕事」にこだわりつつ、人生を全うしようと思っています。
 
 


====<以下は唐澤さんのメールニュースから転載>============

会社は誰のものか?という議論がホリエモンのお蔭で活発になってきました。

英語では会社のステークホルダーという言葉をよく使いますが、それを持ち主
と訳すならば、資本家、経営者、労働者、顧客ですから、「株主が会社の持ち
主」というのは間違いであって、それらの中で、優先順位を付けると、株主、
顧客、社員という順番になるのが資本主義の考え方だということになります。

株主だけが会社の持ち主であるというのは、これまた日本独特の間違った
解釈で、マスコミが揚げ足取りの極論として広めてしまったようで、世界には
通用しない考え方だろうと思います。

また、日本人の経営者は会社経営は「戦争」と同じだと考えている人が多く、
欧米人は「ゲーム」と考えている、と聞いたことがありますが、そう考えると、
わかりやすいように思います。

ゲームと考える欧米人は、負けることもあると最初から考えているので、
駄目ならゲームオーバーでリセットしてやり直せばいいと思うわけです。

戦争と考える日本人は競争してどちらかが死ぬまで戦い続けるわけです。
そして負けたら自殺するといったことになるわけです。

日本人は直ぐに「死ぬ気でやれ!」とか言いますよね?
だから倒産したら自殺する経営者が多いわけです。
株式は借金ではないので、倒産したらそれで終わりで、
経営者が個人的にそれ以上の責任を取る必要は無いわけです。
その辺が日本人には余り理解されていないと思います。

個人的に破産したら、自己破産宣言をすればいいわけですが、
「人から金を借りておいて返さないのは犯罪だ!」といったコメントをよく聞き
ます。色々な考えがあるから、共通のルールとして法律を作るわけで、法律
の則ってやることであれば問題ないはずです。それに反して云々するのは、
法治国家・民主主義を無視する昔ながらの部族社会・邑社会と同じです。

私も今の会社で3つ目ですが、先輩から、「今度は死ぬ気でやるんだね?」
と聞かれて、答えに困りました。最大限の努力はしますが、死ぬ気は無い
わけですから、YESとは言えません。
その先輩と組んで起業した米国の大学を出て、米国でのビジネス経験の
長い人が、「ビジネスと死ぬ気云々ということとは違うでしょう!」と助け船
を出してくれたので話は収まりましたが、こういう日本人が多いですね。

仕事は生きるためにお金を稼ぐ単なる手段であると私は考えておりますし、
欧米人は大体そうだと思います。
日本人の中には仕事が人生の目的のように思い込んでいる人が多いのでは
と感じます。

また、日本では、起業する時に、2〜3年は収入が無くても会社がやっていける
だけの資金を集めることなく、借金で運用しようとしていることも問題です。
借金経営だと会社倒産=自己破産となってしまうわけです。
日本では投資家がそこまで投資してくれない、という問題もありますね。

▼ ▼ ▼ ▼ ▼

日本人はまだ民主主義も資本主義も理解していないし、実践できるだけの
リテラシーも持っていない人が圧倒的に多いように思います。

唐澤

人はなぜ仕事をするのか?−−仕事の向こうにある価値

tomtsubo2004-12-20

人はなぜ仕事をするのか?−−仕事の向こうにある価値

 最近「仕事とは?」ということをずっと考えている。
 
 最大の原因は、「地域情報化」ということに手を染めてからだ。
 先週も、富山インターネット市民塾、高知県の人たちと飲みながら、佐賀県の「鳳雛塾」という起業家養成塾を富山や佐賀に「輸出」する話で盛り上がった。
 この「鳳雛塾」も「市民塾」もビジネスにはなっていない。ボランティアに近い状態なのだが、関係者は元気いっぱいで頑張っている。
 
 仕事の仕組みのことを「ビジネスモデル」という。慶応大学の國領二郎教授は、この「ビジネスモデル」の専門家なのだが、彼自身も地域情報化のグループと関わっていて、首を傾げている。「いったい、この人たちのエネルギーの源泉は何か?」ということである。
 ビジネスになっていなければ飯が食べられないから、永続しないーー。それは当然だ。この人達は、別に本業を持っているが、そことやりくりしながら地域情報化の仕事を続けている。聞いてみると「面白い」「みんなが喜んでくれる」という理由だ。
 
 一方で、自分の会社を振り返る。楽しんで仕事をしている人もいるが、何となく惰性で、「給料分だけ働こうや」の人も結構多い。
 そういうことを考えていたら、図のようなものが頭に浮かんできた。
 
 地域情報化で頑張るAさんは、仕事の向こうに自分なりに大きな価値を見いだしている。地域が活性化すること、同じことをやっている人たちと価値を共有出来ていることに充実感を得ている。
 一方、某社のサラリーマンBさんは、「仕事はほどほど」タイプだ。言われたことはきっちりやっているが、それ以上頑張る気にはなれない。給料は全部奥さんに渡し、ほどほどの小遣いで時に友人と海釣りに行ったり、ゴルフをしたり。子供の成長と、健康に生きていることに満足している。
 もう一人のサラリーマンのCさんは、仕事を頑張っている。他人に負けたくないという性格もあるが、出世して大きな家に住みたいという夢がある。上司に積極的な提案をするし、接待ゴルフも多いので、奥さんはゴルフ・ウイドーだ。
 
 幸せの形はいろいろだから、どれがいいとか悪いとか言うつもりはない。しかし、たった一度の人生に、何を実現出来るか・・・と思うと、Aさんのようなタイプは「物好き」のように見られるかも知れないが、貴重だと思う。
 
 今年のヒーローの一人は、大リーグで史上最高のヒット数を記録したイチローだ。
 イチローの努力、ストイックな姿勢が多くの人に評価されている。ではイチローの「仕事観」は何だろう。
 巨額の年俸を得ることか、有名になることか・・・。多分、彼は「ヒットを打つ」という芸術のようなものを完成させたいのではないか。自分の肉体を鍛え、新しい理論を考えて実践し、結果としてヒットが生まれ、打率が向上する。できれば10割バッターになりたいのではないか? これも仕事の向こうの大きな価値を得たいためではないか。
 
 目的は何だ?−−ということは問われるべきだ。お金のためなのか、出世のためなのか・・・どこまで行ったら満足するのか?
 お金や出世の域を超えた向こうに、どんな価値を見つけようとするのか・・・そういう意味で、地域情報化に関わる人たちとのビジョンの共有は、私には大きな価値がある。
 
 

「ある」から「する」へ

「ある」から「する」へ

 どうも、世の中がおかしいんじゃないか−−と思いつつ、それをどういう切り口で整理すべきかと考えていました。8月末頃に、六本木で慶応の院生2人と遅くまで飲んでいて、一つの結論に達しました。
 それは、「『存在』よりも『行為』が大事」ということです。これはあらゆることに言えると思います。
 20年ぐらい前に、一橋大学の伊丹敬之教授にインタビューする用件があった。ところが時間が取れないという。「大阪に出張です」という。「それなら新幹線の中で」と座席番号を聞いてみどりの窓口で隣席を予約し、東京−大阪間、3時間ほどじっくり話を聞かせて頂いた。
 「日本の経営者の中で、優れていると思う人は誰ですか」という質問に、伊丹氏は「日本の経営者のほとんどは社長になることを目標にして頑張って来た人で、社長になってからは、その地位に甘えてビジョンも行動力もないのが大半」と大変辛口の話を伺ったのを覚えている。
 
 仕事で名刺を交換する時に、相手の名前と肩書きを見た上で、「何をされているのですか」と私は聞く。相手は怪訝な顔をして、肩書きを示して「こういうことをしています」という。そう言われると、私は一気に興ざめして、話を簡単に切り上げたくなる。
 例えば営業部長でも、「こういう商品を売っていて、こういう工夫をしているんですが、なかなかうまくいきません」などというと、「売ろう」という熱意を感じで、あれこれと質問しながら、面白い情報交換が成り立つ。
 
 昔、まだ平社員だった頃、パソコン通信を普及させることについて意見を求められ、自社の役員に、かなりまとまった改善提案をしたことがあった。「我が社のやり方は、世間の常識とは正反対です。パソコン通信サービスの一部にデータベースがあるべきなのに、データベースサービスの一部にパソコン通信を位置づけるのは、どうやってもうまく行かないと思います」と述べたら、提案を求めたはずのその上司は、急に怒りだし、「俺は常務だ。お前にそんなことを言われる筋合いはない」と言った。そこで、「何が常務ですか。戦略の妥当性について、真剣に考えて私は意見をまとめたのに、『常務に文句を付けるな』では、考えることは初めから徒労だったと言うことですが。話になりません」と、当時、私も若かったので言い捨てて出ていったことがありました。
 
 こういう話も、「『存在』よりも『行為』が大事」という考えに至ったベースになっている。
 
 世の中の社長さんに問いたい。「あなたは社長であることを誇らしく思いますか」と。それよりも「社長だからできることをしっかりやる」−−その姿こそが社員の尊敬を集める原点ではないでしょうか。
 
 最近のプロ野球のゴタゴタを見ていて、球団の社長とか代表とかという人たちの決断力、実行力のなさには、かなりあきれました。オーナーの側用人だから仕方がないのかも知れませんが、「野球をどうするか」というビジョンが全然感じられなかった。
 この騒動を大きくしたのは、ナベツネ・オーナーの「たかが選手の分際で」という発言だった。ナベツネ氏の頭の中には、「野球経営の道具(コマ)に過ぎない選手が、経営の問題に口を出すのは思い上がりだ」という観念があったのだろう。これも「オーナーである」という存在を前提にした傲りだ。大事なことは「野球の危機に対して、どのようなビジョンを持って解決しようとしているのか」という『姿勢』『意思』『行為』の問題ではなかろうか。
 
 ある人を「偉い」という。どうして「偉い」かは、その人の社会に対する役割と、その役割に対する行為の質の高さから来るものではないだろうか。
 
 「人間国宝」という人たちがいる。伝統芸能の役者とかだ。重要無形文化財ともいう。逆に普通の国宝は有形だ。この「人間国宝」の人たちは、その演技に価値があるのであって、そこにただいるだけで価値があるわけではない。そこを間違えてはいけない。
 
 ということで、「『存在』よりも『行為』が大事」ということ、優しく言えば、「『ある』よりも『する』が価値がある」という考えですが、読者の皆さんのお考えを聞きたいと思います。


<追加>
 先日、NHKの「クローズアップ現代」で、北海道の旭山動物園が入場者数日本一になったということ。その秘密は「行動展示」という、動物の行動の面白さを見せるという工夫だ−−ということを園長が話していた。

 この話は、私の上記の話と通底している。ただ座っているだけのオランウータンなら、図鑑で見るのと変わらない。実際に木の上でやっているようなことを見せて、「ホー、すごいなあ」と思わせなければ、人は見に来ないのだ。当たり前のことを当たり前にやることが重要だと、納得しました。

 それについて、以下のblogで書いていたので、リンクを張っておきます。

http://d.hatena.ne.jp/pongpongland/20040923

組織とリーダーシップの未来は

組織とリーダーシップの未来は

 私は、20年ほど前から、「組織とリーダーシップ」という問題を考えてきた。
 一つは、1985年の4月から9月まで「21世紀企業」というテーマで、日本経済新聞の1面に毎週1回、連載を書くチームのキャップを務めたことだ。
 これは「エクセレントカンパニー」という本に刺激されて、21世紀の企業の在り方を探るという企画だった。
 第1回が、まだ小さな企業だったマイクロソフトで、最終回がNTTだった。私は三菱化成工業とNTTを担当した。
 その結論は、「社員の個性を生かす歌舞伎座企業」というものだった。
 ところが、そのような方向に企業は変わらなかった。
 バブル崩壊以後、「リストラの断行」が経営者の勇気を示しているとしてもてはやされた。「雇用を守る」と宣言したトヨタ自動車の企業評価について、米国の格付け会社が格下げしたという事件もあった。
 『内側から見た富士通』という本がベストセラーになっている。成果主義をいち早く取り入れた会社が、そのためにモラルダウンを引き起こすという現実を克明に追っている。
 これは、日本の大企業にとっては他人事ではない。多かれ少なかれ、こうした病気にかかった企業が大半だからだ。
 組織は、経営者が管理し、いかに社員のやる気を出させるかが勝負だ−−と思われている。そのやる気の引き出し方として、「よく働いた人にはたくさん、あまり働かなかった人には少し」という差別をすることによって、競争心を煽ろうというのだ。
 そのあまりに短絡的な考えがまかり通ることに唖然とする。
 
 最近、栃木県の幼児殺害とか、あまりに殺伐とした事件が多い。それと成果主義は通底したものがあると思う。それは「人間を道具としてみる」というあってはならないことがまかり通っていることだ。
 「あいつは役に立つ」「役に立たない」−−「あの馬は役に立たない」「あの牛は役に立つ」−−これは同じことではないのか。
 操作する人間と、操作される人間−−『虚妄の成果主義』で高橋伸夫東大教授が述べている通り、19世紀に「科学的管理法」を編み出したアルフレッド・テイラー以来の隷属型労働の概念が、100年以上経っても亡霊のように生きていたということだ。
 
 私は1994年に『マルチメディア組織革命』という本を上梓して、「ビジョン駆動型」という考え方を「コマンド駆動型」(隷属型)に対比させ、情報共有による協働型組織を提案したが、結局のところ、多くの企業は性懲りもなく隷属型を維持しているわけだ。
 
 1985年の企画取材の中で、注目したのはテレビマンユニオンという会社だ。この会社はTBSを脱藩したプロデューサーたちが作った会社で、最近では「ようこそ先輩・課外授業」「世界不思議発見」などで有名だ。この会社は社員全員が投票で社長を選ぶ。プロダクションという特殊な業種で、創造性が求められる会社だが、同種の会社がそうではないことからして、やはりユニークな会社だ。
 
 そうした新しいイメージの経営が、20年も書かれていたことにびっくりする。それは『知的興奮集団のつくり方』という本だ。小川俊一さんという方が書かれ、今は中古本しか手に入らない。ぜひ手に入れて読んで頂くと、その慧眼に驚かされる。改めて学びたいところだ。
 
 
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532092655/qid=1096302483/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/250-8818058-8800243

 私はリーダーシップに関する本をたくさん読んできたが、最近では、『リーダーシップの真髄』(マックス・デプリー著、福原義春監訳。経済界刊)が秀逸だった。特に冒頭に出てくる、機械工の葬式に出席した社長が、彼の残した美しい詩を聞かされ、「機械工が詩人だったのか、詩人が機械工だったのか」と自問するところは、まさに「人間全体の可能性を引き出すことが経営の神髄」と考えさせる。

 あらゆる経営者、管理職に問いたい。「あなたは人間を道具にしていませんか」と。最近、大学に招かれ、人の可能性を引き出していく仕事をしている自分は、開花していく才能を側で見られることの楽しさに夢中になっている。
「ダメだ、ダメだ」というのは簡単だ。じっくりと丹誠込めて育ててこそ、人は「活きる」のだ。

人間の顔について

 米国第16代大統領、エイブラハム・リンカーンは「男は40歳になったら、自分の顔に責任を持たなければならない」と言ったのは有名だが、人間の顔というのも結構変わるのだと思う。
 先日、小泉首相が、10年前に「国連の常任理事国入りは慎重に」という話をしているシーンの映像をテレビで見たが、今の傲慢な顔つきに比べて、清新さが感じられて、良かった。

 先日、アップルコンピュータの副社長の前刀禎明氏と4年ぶりぐらいに会った。「マック(マッキントッシュ)からマック(マクドナルド)」に転進した原田氏に代わって、日本市場を統括する役職だ。また最近話題の「ライブドア」は、前刀氏がAOLジャパンの副社長を辞めて、無料プロバイダーとしてはじめたビジネスを、堀江貴文氏が買収したものだ。

 AOLジャパンにいたころの前刀氏は、ばりばり仕事をするタイプだったが、背伸びしている感じで、「これで大丈夫か」と思っていた。しかし、今回会って、いろんな経験が彼を育てて、自信を持っている様子がよくわかった。

 史上初のストライキをやったプロ野球の騒動の次の焦点は、新規参入が楽天ライブドアか−−である。楽天の三木谷氏にも、5年ほど前に会っているが、今回テレビで見る彼は大きく成長したなと思う。一方で堀江氏(面識はない)の表情は「いたずら好きの少年」のようで、彼に任せて大丈夫かな−−と思わせる。

 趣味の一つが「リーダーシップの研究」で、経営者、政治家などさまざまな分野でのリーダーのレベル、特徴をを文献やインタビューで探っているが、「これは」という人に会うケースは少ない。

 そういう意味で、30年ぶりぐらいに会った、JR東海須田寛氏(相談役、元社長)は、実に面白かったし、その意欲は素晴らしいと思った。この件は、また稿を改めて。

負け犬女vs勝ち犬女

形から入るか、中身から入るか

 ずっと以前(10年も前)から、この「形から入るか、中身から入るか」という問題が頭にこびりついている。
 物事に取り組むとき、とにかく形式を守る、手続きを守ることを重視する人と、本質を捉えて、そこから組み立てていこうとする人がいる。
 私自身は後者だから、前者の人とはうまく行かない。

 今日(7月31日)の午後、テレビを点けたら民放で「ジェネジャン」という番組をやっていて、そこで「負け犬女vs勝ち犬女」という座談会をやっていた。
「負け犬女」は、30代の女性で未婚もしくはバツイチで子供がいない女性。「勝ち犬女」はその反対で、家庭を持った女性というもので、女優の杉田かおるとか、さとう珠緒、千秋などが、あけすけにいろんな意見を言い合っていた。
最後に、俳優の加藤鷹が出てきて、「負け犬系の人はビジュアルについての発言が多くて、勝ち犬系はメンタルなことでの発言が多かった」と言っていた。
またさとう珠緒が「好きな人がいたけどオナラの臭いがいやで別れた」と言ったのに、加藤は「好きだったら許せるし、彼もあなたに気を許しているからオナラをするんだろう」と言っていた。
商品を買うときに、大きさとか性能とかを一つ一つ確かめて、優劣を決めていく人と、「ここが気に入った」とほかの問題は切り捨ててモノを買う人と(同じ人でも場合や商品の種類で違うのかもしれない)がいるが、そういう問題なんだろう。

私は、女性にもそれぞれの生き方があって、30代、独身、子なしが「負け犬」とは思わない。結婚しないのも選択肢だと思う。要は、自己実現できているかどうかだ。

人生は、働いて、食べて、遊んで、「まあよかった」ではないと思う。それぞれの人に、夢があり「思い」があって、それを成し遂げることが「生きがい」だと思う。
そういう意味では、お互いの「思い」を理解してサポートしあえる関係が理想的な夫婦なのではないか。そこから見て立派な紳士・淑女のペアも、「思い」をベースにした協働のパートナーでなければ、やっぱりつまらないのではないかと思う。