「道具の欲望」に負けないために

「道具の欲望」に負けないために


 「“欲望”は人間や動物に特有で、物体とかイベントとかに“欲望”などない」――というのが常識だろう。
 しかし、歴史的に様々な事象にぶつかって、「道具の欲望」に人間が巻き込まれ、よそ欲望の奴隷になってしまう例がたくさんあることに気づいた。
「本末転倒」という言い方もできるが、人間というものは何とも不思議で頼りないものだと思う。


 原発の欲望」を考察する


 典型的な「道具の欲望」の例は、2011年の東日本大震災で起きた東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融事故だ。
 原発核分裂反応で起きた熱を利用してタービンを回し、発電する。根幹はウラニウムだ。
 よく知られているように、これは原子爆弾の原理と同じだ。急速に反応を起こすと爆発し、非常にゆっくりと反応を起こすようにコントロールすると原子力発電ができる。この場合、道具であるウラニウムの欲望は「核分裂」で、放置しておけばどんどん進んで、炉心溶融に至る。厳重な管理とコントロールが大事だ。
 ところが、東京電力は、「道具の欲望」を叶える方向に動いてしまったように思える。すべての電源を喪失すると制御不能になる。そういう「隙」を作ってしまった。
 もっと前にさかのぼれば、火力や水力の発電に比べてコストが安いということで、原子力に注目し、立地する自治体に巨額のお金を落として、無理やりに立地を推進した。もうこの段階で、「道具の欲望」の奴隷になっていたとしか言いようがない。


 「原爆の欲望」の犠牲になった広島と長崎


 原子力については、なぜ広島と長崎に原爆が投下されたのか・・・という問題がある。
 原子爆弾は、第2次世界大戦のさなか、米国で国家予算の3分の一に匹敵する巨額の費用をかけて開発された。
 1945年4月に、ベルリンが陥落し、ナチスドイツが敗北した。残るは日本。原爆を投下する必要はなかったはずだ。しかし、原爆そのものが持つ「道具の欲望」は「爆発」である。米国の国会議員たちは、「これだけお金をかけたんだから」と、その「道具の欲望」を叶えることにした。ここでも、人間は「道具の欲望」の奴隷になった。


 どこにでもある「道具の欲望」


 「道具の欲望」はどこにでもある。
 典型的なのは、受験戦争だ。「高等教育を受けるために進学したい」という生徒たち。そこに道具として登場するのが「受験」あるいは「テスト」。
 「受験」や「テスト」の「道具の欲望」は競争と蹴落としだ。
 生徒も親も、その「道具の欲望」の奴隷となって、本来の人間教育を忘れる。
 「お金」もそうだ。お金は、何かを買うための単なる道具に過ぎない。しかし「お金を儲けたい」「お金を貯めたい」に狂奔する人たちが生まれる。その極限がリーマン・ショックだった。ここでも「お金」という「道具」の「欲望」に人間が逆コントロールされてしまったといえる。
 最近では、日本維新の会の橋下共同代表の従軍慰安婦を巡る発言が典型だ。
 橋下氏自身は「道州制の実現」など、日本を改革することを目指していた。ここでの道具は「人気」だ。テレビタレントとしてのズバズバした物言いで人気を得た橋下氏は、図に乗ってしまった。「人気があるという自信」が不用意な発言で裏目に出た。しかもその取り消しも中途半端。「人気」という「道具の欲望」。つまり人気を得るためにさらに過激に振る舞おうとすることが、彼の政治生命を縮める方向に動いている。


 「何のために」「誰のために」を考える


 とにかく、我々は、「道具の欲望」に巻き込まれてしまいがちだ。
 インスタントラーメンをすすりながら、ベンツに乗っている人もそうだ。
 「フェチズム」といおうか、とてもつまらないものに、虜にされる弱いものを人間は抱えている。
 最近では尖閣諸島をめぐる国境問題がそれだ。「国家」と言う道具に付随する、領土や領海。そのことにこだわるあまり、下手をすれば人命をかけての争い(国境紛争や戦争)もいとわない方向に進んでしまう。
 最近、韓国人がたくさん集まる東京・新大久保で「朝鮮人は出て行け」などという排外的なデモが繰り返されている。その裏には、「自分が恵まれない」という参加者のコンプレックスがあるという。これは、第1次世界大戦後の不況で不満を募らせた大衆に「ユダヤ人撲滅」を叫んで戦争に導いたヒトラーの再来を想起させる。ここでも「民族意識」という道具が、「排外」という欲望を持っていることを制御できないことに思い当たる。
 では、どうすれば、「道具の欲望」に負けないで、人間本来の判断ができるのか?
 私は、あらゆることの行動に、それは「何のために」「誰のために」するのか・・・と考えることにしている。そのことが、誰かを不幸にし、怪しい人たちに利益をもたらすのならば、行動を起こすべきではない。
 これだけで制御できるか・・・現実の中では難しい面もあるかもしれない。しかし「道具の欲望」という観点から物事を分析し、その奴隷にならないよう、しっかり考えるべきだと思うのである。
                        (2013年6月1日)