「サービス文明」がやってくる

私たちが暮らしているのは、産業革命後の「工業文明」だ。
次に来るのは「情報文明」といわれるが、それは嘘だ。「情報」は昔から重要だったが、主役にはなれない宿命を負っている。いわば「スーパーサブ

「サービス文明」とは何か?

1)「相手を幸せにすること」に最大の価値を置く文明。

 工業文明は、資本主義と一体で、「自分が勝てばいい」の文明。顧客は道具で、「お金を払ってくれればいい」だった。こういうのを「オープンエンド型」(売ったらおしまい)という。サービス文明は「オープンスタート型」だ。「売った時点からお客様との関係が始まる」。商品を上手に使うためのアドバイスや補修などをきちんと行いリピートオーダーを目指す。
「相手を幸せにした」ことで対価や感謝を得て、自分も幸せになれる。
「利己主義」を克服し、「利他主義」を目指す。

2)不特定多数から特定顧客へ

 「誰でもいいから売ってしまえ」という規模の利益を求めた乱暴なビジネスから、一人一人の顧客を大事に、その幸せを願うビジネスに転換する。
 このため、顧客は匿名ではなく、顕名になる。
「大衆」という言葉は死語になり、一人一人のお客様の名前で呼ばれる。

3)プッシュ型からプル型へ

 とにかく、大量の商品を安く作って市場シェアを高めよう・・というプッシュ型ビジネスは過去のものになる。お客様を知り、その要望を細かく聞いて、「これしかない」商品やサービスを届けるプル型ビジネスが主流になる。
 重要なのはお客様とのコミュニケーションとそれによる信頼。
 企業では働く人が「お客様」。その能力、意欲、生活の仕方をしっかり把握し、ベストマッチングのメニューを作るのが人事部の仕事。「これが標準」ということで弱者を切り捨てるのはご法度。


 機械の猛烈な進歩で「機械の奴隷」になっていた人間(企業は機械を健全に動かすために人間を使役する仕組み)が、改めて「人間らしさ」を回復する「第二のルネッサンス」が「サービス文明」

 上記のことを詳述した「サービス文明がやってくる」を5月末、アマゾンから電子出版します。乞うご期待!

 スニーカーはサイドレース
                          坪田 知己


 2007年の春から6年間、私は普通の革靴を履いたことがない。すべてスニーカー。それもサイドレース。お葬式も結婚式も。
「普通に甘えない」――私のこだわりはそこにある。


 きっかけはウォーキングから


 2007年の春、離婚した。
 そこで考えたことは、「健康でいたい」だった。マンションの下には鶴見川が流れ、晴れた日には、堤防を散歩する人、ジョギングする人でにぎわう。
 中学時代は駅伝のランナーだったので、長距離走には自信があるが、そこまで無理をすることもない。ウォーキングなら末永く続けられると考えた。
 インターネットの通販サイトで、カッコいいスニーカーを探した。
 目に留まったのが、プーマの「フューチャーキャット」というスニーカー。
 普通の靴は、靴ひもが足の甲の中心で編まれている。ところが、フューチャーキャットは、外側にずれた位置に編まれている。「サイドレース」という編み方だ。しかもデザインがシンプルで、職場や大学に行くにも違和感がない。
「これはいい」と思い、「実物を見たい」と原宿のプーマストアに行った。
 一足が1万2000円ほど。「ちょっと高いな」と逡巡。店員が、「明日、横浜のベイサイドマリーナにアウトレット店がオープンします。3割か4割引きで古いものが買えます」と教えてくれた。
 そこで、翌日、ベイサイドマリーナへ。白に金の豹のマークがついたものと、こげ茶のマークがついたものと、どっちにしようかと大いに迷う。一足7000円ほどだったので、「2足買っちゃえ」ということにした。
 ネットのオークションサイトには、3割から時に6割引きで出品されていた。
 ベージュ、黒、こげ茶、青、空色、あずき色・・・1か月で10足買ってしまった。

 色が違うだけで構造も大きさも同じなので、毎日履いていて足の感覚が全く同じなのがいい。ということで、服に合わせて色を決めるだけで、毎日がフューチャーキャットだ。
 その後、5足買って、今は15足ある。このシリーズは30種類ほどなので、半分以上持っていることになる。さすがに赤と黄は「履いて出られない」と思って買っていない。
 4年前、弟の嫁が亡くなった。葬式に参列するのに「どうしようか」と思ったが、黒のエナメルのフューチャーキャットがあったので、それで行った。誰も気が付かなかった。慶應大学の教え子の結婚式披露宴も黒のエナメルで行ってしまった。


 自分らしくありたい


 2009年末に日本経済新聞社を定年退職した。それ以前、妻と別居した2003年頃から「自分流」の生活に移行した。
 サラリーマンで一番嫌だったのが、ドブネズミルックとネクタイ。イザというときはダークスーツにネクタイだが、普段はノーネクタイでブレザーと綿パンで通した。オフィスが本社とは別ビルだったので、上司(役員)と滅多に会わないのが幸いだった。
「普通に甘んじない」が、若いころからのモットーだった。仕事は自分の信念でやる。横並びのことはしない−−と、自分に言い聞かせていた。
仕事の面でも、「やがて紙の新聞はなくなる。ネットで先行できるのは日経だけ」と、新聞のデジタル化については社内の過激派の急先鋒だった。
 いま、アウターはほとんど高島屋で買っている「ジョセフ・アブード」というブランド。カジュアルだが、ビジネスの場所でも違和感がないのが気に入っている。下着は、「イージーモンキー」というネットショップで米国ブランドのものを調達している。
 結婚していた頃は、全部妻のお仕着せだったから、180度の転換だ。

 ファッションの隅々まで、「自分流」にこだわることは、背筋をピンとさせてくれる。ある意味で「逃げ場がない」「言い訳ができない」のだ。
 朝、着ていく服を決めるのが楽しい。スニーカーに足を入れ、サイドレースの靴紐を結ぶと、「さあやるぞ」という闘志が全身にみなぎるのを感じる。
 もしどこかで、私が“行き倒れ”になっても、フューチャーキャットとジョセフ・アブードで身元確認ができるはずだ。

「道具の欲望」に負けないために

「道具の欲望」に負けないために


 「“欲望”は人間や動物に特有で、物体とかイベントとかに“欲望”などない」――というのが常識だろう。
 しかし、歴史的に様々な事象にぶつかって、「道具の欲望」に人間が巻き込まれ、よそ欲望の奴隷になってしまう例がたくさんあることに気づいた。
「本末転倒」という言い方もできるが、人間というものは何とも不思議で頼りないものだと思う。


 原発の欲望」を考察する


 典型的な「道具の欲望」の例は、2011年の東日本大震災で起きた東京電力福島第一原子力発電所炉心溶融事故だ。
 原発核分裂反応で起きた熱を利用してタービンを回し、発電する。根幹はウラニウムだ。
 よく知られているように、これは原子爆弾の原理と同じだ。急速に反応を起こすと爆発し、非常にゆっくりと反応を起こすようにコントロールすると原子力発電ができる。この場合、道具であるウラニウムの欲望は「核分裂」で、放置しておけばどんどん進んで、炉心溶融に至る。厳重な管理とコントロールが大事だ。
 ところが、東京電力は、「道具の欲望」を叶える方向に動いてしまったように思える。すべての電源を喪失すると制御不能になる。そういう「隙」を作ってしまった。
 もっと前にさかのぼれば、火力や水力の発電に比べてコストが安いということで、原子力に注目し、立地する自治体に巨額のお金を落として、無理やりに立地を推進した。もうこの段階で、「道具の欲望」の奴隷になっていたとしか言いようがない。


 「原爆の欲望」の犠牲になった広島と長崎


 原子力については、なぜ広島と長崎に原爆が投下されたのか・・・という問題がある。
 原子爆弾は、第2次世界大戦のさなか、米国で国家予算の3分の一に匹敵する巨額の費用をかけて開発された。
 1945年4月に、ベルリンが陥落し、ナチスドイツが敗北した。残るは日本。原爆を投下する必要はなかったはずだ。しかし、原爆そのものが持つ「道具の欲望」は「爆発」である。米国の国会議員たちは、「これだけお金をかけたんだから」と、その「道具の欲望」を叶えることにした。ここでも、人間は「道具の欲望」の奴隷になった。


 どこにでもある「道具の欲望」


 「道具の欲望」はどこにでもある。
 典型的なのは、受験戦争だ。「高等教育を受けるために進学したい」という生徒たち。そこに道具として登場するのが「受験」あるいは「テスト」。
 「受験」や「テスト」の「道具の欲望」は競争と蹴落としだ。
 生徒も親も、その「道具の欲望」の奴隷となって、本来の人間教育を忘れる。
 「お金」もそうだ。お金は、何かを買うための単なる道具に過ぎない。しかし「お金を儲けたい」「お金を貯めたい」に狂奔する人たちが生まれる。その極限がリーマン・ショックだった。ここでも「お金」という「道具」の「欲望」に人間が逆コントロールされてしまったといえる。
 最近では、日本維新の会の橋下共同代表の従軍慰安婦を巡る発言が典型だ。
 橋下氏自身は「道州制の実現」など、日本を改革することを目指していた。ここでの道具は「人気」だ。テレビタレントとしてのズバズバした物言いで人気を得た橋下氏は、図に乗ってしまった。「人気があるという自信」が不用意な発言で裏目に出た。しかもその取り消しも中途半端。「人気」という「道具の欲望」。つまり人気を得るためにさらに過激に振る舞おうとすることが、彼の政治生命を縮める方向に動いている。


 「何のために」「誰のために」を考える


 とにかく、我々は、「道具の欲望」に巻き込まれてしまいがちだ。
 インスタントラーメンをすすりながら、ベンツに乗っている人もそうだ。
 「フェチズム」といおうか、とてもつまらないものに、虜にされる弱いものを人間は抱えている。
 最近では尖閣諸島をめぐる国境問題がそれだ。「国家」と言う道具に付随する、領土や領海。そのことにこだわるあまり、下手をすれば人命をかけての争い(国境紛争や戦争)もいとわない方向に進んでしまう。
 最近、韓国人がたくさん集まる東京・新大久保で「朝鮮人は出て行け」などという排外的なデモが繰り返されている。その裏には、「自分が恵まれない」という参加者のコンプレックスがあるという。これは、第1次世界大戦後の不況で不満を募らせた大衆に「ユダヤ人撲滅」を叫んで戦争に導いたヒトラーの再来を想起させる。ここでも「民族意識」という道具が、「排外」という欲望を持っていることを制御できないことに思い当たる。
 では、どうすれば、「道具の欲望」に負けないで、人間本来の判断ができるのか?
 私は、あらゆることの行動に、それは「何のために」「誰のために」するのか・・・と考えることにしている。そのことが、誰かを不幸にし、怪しい人たちに利益をもたらすのならば、行動を起こすべきではない。
 これだけで制御できるか・・・現実の中では難しい面もあるかもしれない。しかし「道具の欲望」という観点から物事を分析し、その奴隷にならないよう、しっかり考えるべきだと思うのである。
                        (2013年6月1日)
 

(草稿)99%の人が知らない「文章の書き方」

評論家の勝間和代さんが、キンドルのワンコイン文庫で「あなたも本を書いてみよう」というものを書いていた。
それに触発されて、私が各地の文章講座で教えている内容を、同じぐらいの分量(約1万5000字)で書いている。
その草稿の第2章までを、ここで公開します。近いうちに、どこかのサイトから電子本形式で出版しようと考えています。(まだ未定)


99%の人が知らない「文章の書き方」


 はじめに


 皆さんにお尋ねします。
「小学校から大学まで、遠足の作文や、レポート、論文など数百回も文章を書いたでしょうが、その文章を先生かプロのライターにきちっと添削してもらったことはありますか?」
 私は、講演や文章講座で何度もこの質問をしてきましたが、ほぼ99%の人が「そんな経験はない」といいます。
 残りの1%は、たまたま親切な先生に出会ったか、外国で学んだことがある・・・ということでした。
 そーーーなんです。
 世界中のほとんどの国で、国語教育で「文章の書き方」を教えるのに、日本だけが国語の正課に「文章の書き方」がない、不思議な国なのです。
 そのことから、国際化が進む中で、「日本人は何を言ってるのかわからない」などと言われるのです。外国語を学ぶ前に、自国語の「基礎の基礎」ができていないのです。
 日本人は「議論べた」とも言われますが、議論をする前提として、自分の考えを明快に相手に伝える訓練ができていないので、議論する資格すらないのです。
 私は、「日本は民主主義国家になり切れてない」ことを情けなく思っています。その根本的な原因は、「表現力=文章の書き方」をおろそかにしてきたことが根本原因だと思います。
 「文章の書き方」については、書店には何十冊もの本が出ています。何冊か手に取ってみましたが、ほとんど落第です。
 唯一、「これは的を得ている」と思ったのは、ベネッセ・コーポレーションで文章指導指導をされていた山田ズーニーさんが書かれた『伝わる・揺さぶる! 文章を書く』(PHP)新書)だけでした。
 私は日本経済新聞の記者として、約20年で約1万本の記事を書きました。また日経と『日経コンピュータ』誌のデスクとして、5年間に数千本の記事添削をしました。さらに、これまでに4冊の単著を出版しています。
 それらの経験から、仮に「坪田メソッド」と呼ぶ文章術を考案し、2011年からの2年余りに200人以上の受講生を教えてきました。下は高校1年生から、最高齢は84歳の方までです。
 受講生は一人の例外もなく、文章が上手になり、格段の進歩を遂げた人もいます。この本では、「初級編」として、約1万5000字の文章で、「坪田メソッド」のエッセンスをお伝えします。この本の続編として、個別の事例を続編として出版して行きますので、ご期待ください。


   目次(仮)

はじめに
第1章 いい文章とは何か
第2章 さあ書こう!
第3章 読み手を引きつける冒頭の工夫
第4章 リズム感をどう作るか
第5章 何を伝えるか(実例を使って)
第6章 点検の方法=文章の「カキクケコ」
第7章 私の文章講座


第1章 いい文章とは何か


「いい文章」の要件は以下の3つです。

1) 何を言いたいのかが明快・簡潔
2) リズム感があって読みやすい
3) 筆者の気持ちが伝わる


 私はデスク時代、1000字の文章をわずか5-10分で添削して完成版にするという極限の仕事をしてきました。その時、「どんな文章も、一番大事なセンテンスは一つだけ」と定義して、それを拾い出して、それをきれいに説明できるように前後を構成する・・・という方法で乗り切ってきました。
 どんな長い本も、大事なことはたった一つです。長大な『平家物語』も「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」――これが「核心文=キーセンテンス」で、あとの全部が、この文章の具体例の提示なのです。
 逆に言えば「あれもこれも」書いた文章は失格です。「大事なことは一つだけ」・・・それを守ってください。2つ書きたければ、別の文章にしましょう。
 
 日本では文章の達人が書いた『文章読本』として評価を得ている本が3冊あります。最初が1934年に書かれた谷崎潤一郎のもので、次に1959年の三島由紀夫、1977年の丸谷才一のものです。
 さすがに達人たちの「書き方」のエッセンスが詰まっているのですが、ここではお薦めしません。これらはプロの物書きになろうという人たち向けです。私のこの本は、「普通の人が一段上を目指す」のが目的です。「上手な文章」ではなくて「わかりやすい文章」「共感される文章」を目指します。

文章のリズム感ですが、以下の2つを見て、皆さんはどう思われますか?
■は文字です。


A)
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B)
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 お近くに本があれば、ページを開いてみてください。A)のように文字がぎっしり詰まっているものと、B)のように2-3行で改行されていて、右側に空白があるものと。皆さんはどちらが読みやすいと思いますか?
 論文など難しい本は、A)になりがちです。
 芥川賞作家の宇能鴻一郎氏は官能小説の大家でしたが、彼は「うふん」とか、一行で改行する独自の文体で、本の下半分が真っ白というのもありました。これはちょっとやり過ぎですが、「文章は短く、改行は多目に」をお薦めします。この(横書きにした時)右側がギザギザになるのがリズム感だからです。
 ブログなどでは1段落が3行から7行ほどで、1行の空白を作るやり方が普及しています。これはパソコン通信時代からあるもので、パソコンで画面をスクロールして読むには適しています。
 文章のリズム感については、第4章で詳しく書きます。

 最後は「筆者の気持ちが伝わる」ですが、これは、「思いを込めて書く」のが大事だということです。
 文章というのは「自己開示」の行為です。自分を隠しながら、何かを伝えようというのは、かなり難しいことです。「自分はこう思った」「こう考えた」という気持ちがなければ、読者には伝わりません。
 このことは第5章で詳しく書きます。


第2章 さあ書こう!


 文章を書き始める時に、一番大事なことは「上手に書こう」という意識を捨てることです。
 『週刊文春』に、「ホリイのずんずん調査」を長期連載していたコラムニストの堀井健一郎氏は『いますぐ書け、の文章法』(ちくま新書)で「?うまく書きたい?とおもってる意識そのものに問題があるので、それをちゃんと取り除けばいい」と書いています。
 また「文章を書くことの根本精神はサービスにある」と書いています。
 私も、職業としての物書きになって40年以上になりますが、堀井氏の意見に賛成です。
 とにかく、普通の人が「うまく書こう」としたら、ろくなことが起こらりません。名文の文句をつぎはぎしたり、変に恰好を付けたり。それでは読者は引いてしまいます。
 とにかく、文章は「読者に読んでもらう」ものです。そのことを忘れたら無価値です。読者を意識しない文章はすべて落第。書くこと自体に意味がありません。

 では、最初にどうするか。
 自分が書きたいことは何かと考えて、それを一つの文にして、書いてみる。
「どんな人も、ちょっとした知識でグンと文章が上手になる」

……たとえば、この本を書く時の私の気持ちを書けば、そういう文章になります。

「毎日、ご飯を作ってくれるお母さんに感謝したい」
「学校の先生に叱られて、自分の欠点に気づいた」

――というのもいいでしょう。
 この文を書いておいて、それを説明するために、全体の文章を書いていくのです。
「学校の先生に叱られて、自分の欠点に気づいた」でしたら、いつ、何をしている時に叱られたのか、その時自分はどう思ったのか? さらに時間が経つにつれて、叱られたことからどのように反省して結論を得たのか。そして、今後はどうしようとしているのか?
 そのように考えて、文章を書いていきます。

 とにかく、書けるだけ書いてください。
 いまは、ほとんどの人はパソコンで文章を書きます。あとでいくらでも直せます。
 とにかく、吐き出せるものは全部吐き出してください。それを直す作業が10倍あると思ってください。
 実は、この本で書くことは「文章の書き方」よりも「文章の直し方」です。
 最初から、「直しがゼロ」で完成品の文章を書くことは、どんな文豪にもできません。どんな文豪も最初は下手だったのですから、ご安心ください。

 文章の量として、私は「1500字」というのをお薦めしています。
 なぜかというと、400字(原稿用紙1枚)は、短すぎて、内容が詰め込めない。3000字は初心者にはちょっと負担が大きい。さらさらと書くには1000字以上、2000字以内が程よい分量なのです。

 文章というと「起承転結」とか「序破急」がいい文章のスタイルだと言われますが、それは意識する必要がありません。意識すると素直に書けなくなってしまいます。書いてみて、結果的に「起承転結」だったり「序破急」なのはOKです。
 
「自分はずぶの素人」と自覚している人には、逆三角形の文章をお薦めします。
「逆三角形」は新聞の文章のことです。 
 新聞では、紙面をレイアウトしている時に大事件、例えば「北朝鮮がミサイル発射」とかが起きたら、その記事を入れるために、すでにレイアウトされている記事を短縮しなければなりません。いちいち全部読んで細かく直す時間の余裕はありません。その時、文章が逆三角形(大事なこと先頭に書き、補足的なことを最後に書くような構成)になっていれば、後ろから段落単位で削れるのです。
 ということで、まず「結論」を書き、その説明をそのあとに順次書いていくというのが、簡単でわかりやすく、おススメです。
 例えば、「私はタコ焼きがすきだ。縁日の屋台で食べたのが初めてだった。以来、大好きになって、とうとう『たこ焼き器』を買うまでになった・・・・」とかです。
 
 欧米の人に「上手な文章は“起承転結”です」などというと笑われます。なぜ「転」があるのか? 欧米の文章は、結論を冒頭に書き、それを説明する・・・というスタイルが標準です。「わかりやすくていい」と思いませんか。

 日本では、冒頭に言い訳を書いたり、事情を周辺から説明したりで、結論は最後だったり、後半だったりする文章がほとんどですが、こういうのはやめましょう。
 現代は、「文章は読んでもらえない」時代 なのです。夏目漱石芥川龍之介が活躍した、明治や大正の頃とは大違いです。
 とにかく、現代は忙しい。一方で情報は洪水のように溢れていて、読み手は面白くもない文章に付き合う余裕がないのです。だから「読ませる」工夫がないと読んでくれません。
 だったら、結論を先に書く方が、読者に親切なのです。

<お断り>ブログのフォントサイズの指定が面倒で、途中の■■の部分がうまく表現されていません。申し訳ありません。

やっと「未来の働き方」を考える時期に来た

やっと「未来の働き方」を考える時期に来た


坪田 知己(前電子ペーパーコンソーシアム委員長)



 さる2月22日、電子ペーパーコンソーシアムは毎年1回のシンポジウム(場所は日比谷図書文化館)を開催した。そこで「未来の働き方とそのツール」というパネル討論を行った。
 私にとって、「働くこと」の本質を考えることは学生時代以来40年以上取り組んできたテーマで、やっと2010年代に入って、私の考えてきたことが具現化される一歩手前まで来たと感じている。


 働くことは「楽しみ」か「隷属」か


 「働くことは収入を得ることが主眼であり、そのために雇用主の指示に従って黙々と頑張る」というのが、これまでの一般常識だった。それが、今も大きな話題になっている「就活」問題の背景だ。
 私はジャーナリストの道をめざし、新聞社の入社試験に落ちたら故郷で高校の教師になるつもりだった。「読者に真実を伝える」という仕事以外に興味のある仕事はなかったし、「何が何でもどこかに就職して」とは考えなかった。職業を選んだのであって、会社を選んだのではなかった。
 私の学生時代は、全共闘運動の時代で、学生はマルクスの本を読むのが通例だった。そんな中で、共産主義とか人間疎外について考えていた。
 当時読んだ本で印象に残っているのが、ノーベル文学賞を受けたソルジェニツィンが書いた小説『イワン・デニーソヴィチの一日』だった。
 ソ連強制収容所で働かされている主人公の1日を書いたもので、共産主義国の恥部を暴露したとも言われ、「人間賛歌」だとも評されている。私は単純労働の中に小さな喜びを見出す「人間の哀しさ」に打たれた。
 ポルノ小説の秀作とされている『O嬢の物語』に「奴隷状態における幸福」という序文が付いている。1838年西インド諸島のバルバドス島で奴隷状態から解放された黒人が、「元の身分に戻りたい」と元の主人を虐殺し、元の奴隷小屋に戻ったという話だ。
 人類の歴史は、奴隷制封建制絶対王政という歴史を経て、民主主義に到達した。フランス革命の標語は「自由・平等・博愛」で、人間が自由を獲得することの重要性を高らかに謳いあげた。
 ところが、世の中には、「誰かに従って働くことをよしとする人」が大量に存在する。
 社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、主著『自由からの逃走』(1941年)で、ファシズムの勃興を心理学的に分析し、サディズムマゾヒズムおよび権威主義を人間の自由からの「逃走のメカニズム」とし、「自由」に伴う自己責任を回避する人々は、誰かの支配下に入って、それに隷属することを是とすると書いた。要するに「ゴマすり」が幅を利かせるのだ。
 私は従業員約3000人の企業で働いてきたが、在職中のストレスの8割は社内のヒエラルキーの重圧と戦うことだった。不勉強な上司の指示に従うことは大きな苦痛だった。そこで、「階層社会では、すべての人は昇進を重ね、おのおのの無能レベルに到達する。やがて、あらゆるポストは、職責を果たせない無能な人間によって占められる」という“ピーターの法則”を固く信じている。
 「働く」とは、「傍(はた)の人を楽にする」ことで、そのことによって「顧客から感謝されることに喜びを見出す」のが本来の姿だと思う。しかし、出世競争などでストレスまみれになり、組織は、組織そのものの力学で、人間を圧殺しようとする。
それとどう戦うか・・・私の会社人生のメインテーマがそれだった。「遊労一致」――労働は遊び、遊びが労働・・の実現を密かにたくらんでいた。


 インターネットが扉を開けた


 1994年に私は処女作『マルチメディア組織革命』を上梓した。意外な人気で1万部近く売れ、韓国に翻訳出版権を売った。
 この本には「個を主役にするビジョン駆動型組織の提案」という副題をつけた。
 この本の冒頭にこう書いた。


   やる気を失っている人に、生気を吹き込むのは「責任」である。
   情報を収集する自由と道具を与え、判断を尊重し、成果を配分することを告げれば、人は生き生きとして働く。
   情報を与えず、責任もなく、成果の配分のルールもなければ、いい仕事はしない。
  「心を燃やせるかどうか」――経営の質、従業員の働きがいは、この一点にかかっている。
   マルチメディアとネットワークは、個人が幅広く情報を与えるための不可欠の知的インフラストラクチャーである。
   これによってピラミッド組織を崩し、「個」を主役にした自律・分散・協調の経営が可能になった。


 ここで書いた予言は、今にして思えば、寸分の狂いもなく、経営の未来を見通していたと言えるだろう。
 昨年邦訳が出てベストセラーになっている『ワークシフト』(リンダ・グラットン著、ダイヤモンド社)を読んで驚いた。
 この本は、1)高度な専門技能を習得し続ける、2)友人などの人間関係資本をはぐくむ、3)お金に隷属する価値観を見直し、創造的で質の高い経験を大切にする−−のが未来の働き方の3原則だと結論付けている。
 なんと、自分は1980年代の半ばにそのことに気が付いていた。その理論編が『マルチメディア組織革命』で、実践記録が2010年に出版した『人生は自燃力だ!!』(講談社)である。 
『ワークシフト』にも書かれているように、インターネットこそが、仕事の大転換を生み出した決定要因だった。
 情報は上層部が握り、ヒラ社員は命令通りに動かされるだけ・・・という現代の奴隷制は通用しなくなった。むしろ一次情報を知らない上層部が「情報のタコツボ」にはまっているのが現実の姿だ。


「第2のルネッサンス」が進行中


 私は、こうした状況を「第2のルネッサンスが進行中」と言っている。
 14−16世紀にイタリアで起きたルネッサンスは、キリスト教支配の暗黒時代を打破して古典古代の文芸を復興する運動だった。
 人類の歴史を見ると、古代から封建時代、絶対王政の時代まで、支配とは暴力=武力だった。フランス革命に始まった市民革命は、一方で産業革命による経済力を握ったブルジョアジーが台頭し、王制を打破して民主主義を標榜した。
 とはいえ、民主主義は建前で、実質的には経済発展を目標に、財界と官僚が実質権力を握り、民衆は軽薄なマスコミの踊らされながらお芝居を演じたのが過去100年だった。
民主主義が本物にならなかったこと、あるいはマルクスが目標とした共産主義革命が実現しなかった真の要因は「機械文明」だった。
 産業革命は、電気の発明とその普及で、19世紀末から第2段階に突入する。そのことで、ワットの蒸気機関や、ハーグリーブスやアークライトの紡績機、カートライトの力織機などの機械がさらに精密になり、小型化し高速化した。
 機械文明の普及は世界を一変した。実は19世紀中盤から20世紀末まで、世界を支配したのは「機械の魔法」だった。
 アルビン・トフラーは主著『第三の波』の中で、工業社会の原則を6つにまとめた。「規格化」「分業化(専門化)」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」がそれだ。
 機械文明の急速な進歩に人々は、とにかく「付いていくしかない」で過ごした150年だった。
 ギュウギュウ詰めの地下鉄で“痛勤”し、大工場や大きなオフィスにたどり着き、ヒエラルキー型の組織で叱られ、残業し、屋台で上司の悪口を言って深夜帰宅・・・それが1960−80年代のサラリーマンの姿だった。考える余地もなく、マスプロ・マスセールスの大波に流されていた。
 要するに、人間も大きな機械の部品にされてしまったのだ。「それ以外に生きる道はない」という妄想にとらわれ、それが昨今の就活の難しさに結びついている。
 『ワークシフト』でリンダ・グラットンは、社会起業、ミニ起業家、グローバルな連携などで、主体的に働けるフィールドが広がる未来を提示している。
 つまり、機械文明と大組織の専横が過去のものとなり、インターネットを使って連携することで、一人やチームの単位で働ける可能性が広がっている。やっと人間は「人間らしい働き方」を取り戻せるところに達したのだ。


 未来のオフィスはどうなる?


 2011年8月の夜、私は京都工芸繊維大学の仲隆介教授からの電話を受けた。同大学の次世代ワークプレイス研究センター(略称:NEO3)の活動に参加してほしいという熱烈なラブコールだった。
「報酬に条件はありません。面白くなければすぐに辞めます」と返答した。以来1年8か月、毎月1回の研究会が楽しくて仕方がない。
 まず、私が言ったことは、「仕事の定義」だった。これまでは9時から5時まで、オフィスにいることが「仕事」だった。しかし、インターネットの普及で、どこにいてもパソコンさえあれば仕事ができる。「場所」と「時間」は要件ではなくなった。逆に「意思(やる気)」が要件になった。
 次に仲間と議論して「モザイク人」というモデルを考えた。これまでは一つの会社に専属しているのが普通だった。しかし、週末にボランティアをやったり、アフターファイブにNPOの活動をしている人が増えている。自分の能力を多角的に活用して、複数のチャネルで社会につながっている・・・これを「モザイク人」と定義した。
 そういう働き方が増えて当然で、それを促進するために、チームメンバーとの出会いの場として「リマッチング・プラットフォームの構築」をテーマに掲げた。
 NEO3の協賛企業はゼネコン、オフィス家具メーカー、IT企業など。仲教授は建築学が専門で、目指すは「新しいオフィスの姿」なのだが、議論はそこになかなかリンクしない。メンバーもそれを楽しんでいる。
 オフィスが事務作業の場ならば、それはインターネット接続さえあればできるので、「いらない」が帰着点だ。
 ただ、仕事の中で「会議」「議論」は必要だ。もちろんテレビ会議スカイプでもできるが、集まった方が効率がいいように感じる。その場合、植木鉢や花があるようなリラックスした空間、サロンのような雰囲気が好まれるのかもしれない。


 「企業」を実践した経験


 2009年に日本経済新聞社を定年退職した私は、翌年3月にフリーライターの女性と会社を設立した。編集プロダクション的な会社だった。
固定費を抑えたいので、友人の会社(東京・赤坂)に机と椅子を貸してもらっただけで、日常的には自宅と出先が仕事の空間だった。
 昨年5月に会社を彼女に譲渡したので、都心での仕事は所属している日本記者クラブ(東京・内幸町)のコーヒールームだ。そこで来客と会ったり、無線LANを利用して雑用をしている。
 この会社は文章講座「稿輪舎」を運営しているため、そのスクーリングの場所が最低限必要だ。赤坂のオフィスがふさがっている時は渋谷の「電源カフェ」を利用したこともある。
 最近、独立して働く人のためにコワーキングスペースや貸会議室が増えている。そこでは電源と無線LANが必需品だ。ミーティングや来客との応対が広いスペースのあちこちのテーブルで自在に行われている。
 一方、私は横浜で地域おこしを目的とした会社を作り、出資し、取締役になった。この会社はなかなか集まれないので、メールとSNSのコミュニティ、スカイプで会議をしている。登記上の場所はあるが、そこには何もない。たまに郵便が来るので、それを保管してもらっている程度だ。
 結局のところ、私の結論は「オフィスは不要」だ。
 4年ほど前、京都工繊大が発行した未来のオフィスをテーマにした本に、「理想のオフィス」の寄稿を頼まれた。
 この時、「それは露天風呂だ」と書いた。ネット接続さえ可能なら、どこでも仕事ができる。一番快適な場所が選べる。その寄稿に学生が、サルが露天風呂に入っている写真を添えてくれた。
 徳島県は県内にCATVのために光ファイバーが敷設され、高速インターネットが使える。そこで山間の古民家に東京の会社がメインオフィスを移転してきた。清流のせせらぎに足を浸しながら、社員たちは遠隔で顧客とやりとりしている。
それを見ると、都会で痛勤電車に押し込まれている人間がなんとミジメかと思う。


選択肢は広がっている


 10年前に比べれば、仕事の多様性は何倍にも広がっている。
 地域おこしでパートナーになっている女性たちは、興味深い仕事ぶりだ。Mさんは、企業の人事面接を手伝い、自宅では翻訳の仕事をし、小学生の子供を育て、地域の集まりにも頻繁に出席している。要するに「働かされている」という受け身ではなく、主体的に時間管理をしている。
 『ワークシフト』の最後の方に、「なぜ、私は働くのか」という質問への答えが列記してある。
1) 私が、働くのは、一緒にいて楽しく、いろいろなことを学べる同僚たちと過ごしたいからです。そういう人眼関係をとても大切にしています。
2) この仕事の好きな点は、手ごわい課題に取り組めることです。難しい課題、本気で努力しないとやり遂げられそうにない課題、そして、アドレナリンがわき出すような課題に挑むことが楽しいのです。
3) 私が働くのは、学ぶためです。自分のアイデアをすべて実現したいと思っています。私にとって、仕事は学習のための素晴らしい場なのです。
4) 自分が進歩していると感じられる場に身を置くことにより、強い刺激を受けています。自分を厳しい環境に追い込み、自分の技能を向上させていると感じられるのは、素晴らしい経験だと思っています。

 「充実した経験」「情熱を傾けられる経験」「一種に学べる同僚たち」・・・私の会社(日本経済新聞社)での人生はそれだった。120%満足している。「やり遂げた」という快感を持って定年を迎えられた。
 定年後も私の忙しさはほとんど変わらない。
 2010年の後半は、地域再生マネージャーの成果を追って、北海道から沖縄まで12カ所を旅して、テレビ番組を制作し、本を書いた。
 2011年から、地域レポーター養成などを名目に全国7カ所で文章講座を実施し、200人ほどの受講生を教え、好評を得ている。
 すべてこれは収入のためではなく、自分の勉強と、教えた相手の成長する姿、喜びを見るのが楽しいからだ。暇だからゴルフや旅行で時間つぶしするような発想は私にはない。それよりずっと楽しいからだ。


 事務機器業界への提言


 JBMIA(ビジネス機械・情報システム産業協会)に集まる事務機器メーカーの方々は、もう10年もすれば、産業の姿の激変を体験するでしょう。
 いま、世界のあらゆる産業は「サービス化」への一本道を走っている。
 単に製品作って売る(オープンエンド型)ではなく、その製品がユーザーの手元でどう使われ、役になっているかを総合的にサービスする(オープンスタート型)になって行く。
 ファシリティ・マネジメントという業種がある。「施設管理」と訳されているが、「その本質はホスピタリティだ」と、知人の専門家は喝破している。
 事務機器や家具、内装などはファシリティの部材に過ぎない。
 まず考えてほしいのは、前述した「仕事の本質」であり、その変化だ。
 そして、快適に仕事ができる環境。それに必要な機能だ。
 「ホスピタリティ」ということでは、わが国には「おもてなし」という優れた文化がある。これをリファインすれば、世界最高のものができるだろう。
 欧米から学ぶのではなく、自ら新しい業態を創り出し、世界を先導してほしい。
 そのために、電子ペーパーコンソーシアムで過去約3年議論してきた「未来の働き方」を、JBMIAの中でしっかり見つめ、進路を決めてほしい。
 それは今が絶好のチャンスだと信じている。


 (2013年4月発行の「JBMIAレポート」への特別寄稿)

                            (了)
 
 

SFC授業へのメッセージ

「社会基盤と制度設計」受講のみなさんへ

 5月13日と20日の授業を担当する坪田です。テーマは「働くこと」です。
1回目は「自分と仕事」がテーマ、2回目は「社会と仕事」がテーマです。
 
 皆さんは、大学を卒業して、ほとんどの人は社会人になると思います。大半は就職し、一部の人は起業を志すと思います。
 人間にとって「働く」ということは、自立して生きる、一人前であるということの証明です。しかし、これまで養われながら学んできた時期とは異次元の世界です。「自分がやって行けるのか」という不安を抱えながらの船出だと思います。
 働くということは、2つに分かれます。一つは「被雇用者」です。企業でサラリーマンになるのがこれです。雇用者(経営者)の指示で、求められるタスクを達成することで給料を頂くという働き方です。
 もう一つは、自ら事業を興して、逆に他人を雇用して働くというものです。この場合は事業のすべてに責任を持たねばなりません。
 いずれにせよ、「プロ」にならなければ、働いたことにはなりません。サラリーマンの場合は、同期入社でも成果によって昇格昇給に差が付きます。


 私は、1972年に日本経済新聞社に入社し、約16年記者をやり、そのあと5年ほどデスクをやり、その後は管理職として勤務しました。
 管理職になってからは、経営計画を担当し、さらに世界最大のインターネット・プロバイダーであるアメリカオンラインとの合弁事業の契約と運営を手がけました。
 さらに、2003年から6年半、SFCで特別研究教授をやりました。
 記者、ビジネス、大学教授の3つをやった人は、世の中に私だけだと思います。

 一方で、私は、大学時代から「働くこと」を考え続けてきました。
 「会社の命令でやるのではなくて、自分の能力を発揮する舞台として会社があるのだ」と考え、常に「命令される前に提案する」という姿勢を貫いてきました。
 特に最後の16年は、自分の発想で自由自在に仕事をしてきました。それが非常に珍しいので、講談社が注目し、2010年に『人生は自燃力だ!!』という半生記を出版しました。

 これから社会に出て行くみなさんに2回の授業でメッセージを伝えられることはとてもエキサイティングなことです。
 自分が生きたことを「やったぜ」と振り返られるように、常にチャレンジ精神を忘れずに、頑張ってほしいと思います。

 私自身、自分の経験を生かし、各地で文章塾を開いたり、横浜・大倉山と東京・東高円寺で地域おこしの活動に加わって、「共助」の仕組みを作る女性たちを支援しています。

 会社を定年になれば「終わった」と思う人が大半ですが、私は人生は2毛作だったり、もしかすると3毛作かもしれないと思っています。
 未知の世界に挑んで、それを形にできるというのはワクワクするものです。楽しい仲間と頑張れるのも最高です。

 多くの人が、楽しく、前向きに仕事をして、世の中をもっと楽しく、豊かなものにして行けたら・・・と思います。少子高齢化で、若い人にとっては厳しい未来かもしれません。でも、知恵を出せば、必ず道が開けます。
 私は、人生で難問にぶつかるたびに「絶対なんとかする」とファイトがわきました。
 ぜひ、皆さんにも、自分が、自分たちが頑張れば、何とかなる・・・という気持ちで人生に取り組んでほしいと思います。
 「人生は究極の自己満足劇場」(ロボット工学者の古田貴之氏)なのですから。


 課題の『ワークシフト』は出来れば全部読んでください。とてもいい本です。私に興味のある人は『人生は自燃力だ!!』(講談社)を読んでください。


 そのほか、参考になる本は以下です。2回目の授業で、「こんな会社がいい」という話をしましょう。その参考文献です。

1)「だから、僕らはこの働き方を選んだ 東京R不動産フリーエージェント・スタイル」(馬場正尊ほか著、ダイヤモンド社
 東京R不動産というとてもユニークな不動産会社の特異なワークスタイルを紹介しています。
2)WIRED VOL.7 GQ JAPAN.2013年4月号増刊 特集「未来の会社」
 未来の会社がどうなるかを特集したもの。
3)「奇跡の経営 一週間毎日が週末発想のススメ」(リカルド・セムラー著、総合法令出版)
 地球の裏側に、こんなユニークな会社があるのは驚き。同じ著者で「セムラーイズム」(ソフトバンク文庫)という本もある。
4)『破天荒!サウスウエスト航空 驚愕の経営』(ケビン・フライバーグ・ジャッキー・フライバーグ著、日経BP
 世界の格安航空会社のモデルとなった会社の物語。「社員が第一、顧客が第二」という経営スタイル変革のサクセスストーリー。

『ワークシフト』を先取りした自分

『ワークシフト』をサキドリした自分


さきほどリンダ・グラットンの『ワークシフト』(ダイヤモンド社)という本を読み終えた。
去年の秋には買っていて、昨年中に読むべきだったのだが、他に優先する本があり、ここ4日ほど、後半の約200ページを読んだ。

前半は、2025年の働き方の空想ドラマで、こういうのはあまり好きじゃない。

第4部の「働き方をシフトする」(229ページ)から、本格的な説明が始まる。ここからが非常にいい。

結論から言えば1)専門的技能を絶えず磨いて自己ブランドを確立する、2)交友関係を重視し、刺激し合える友人を持て、3)金銭主体の価値観から脱して、経験を重視せよ・・・である。

自分でいうのもおかしいが、このことは20年ぐらい前に気付いていた。で、どうしたかは『人生は自燃力だ!!』という本に、自分の実践の記録として書いた。その本では、以下の構成で書いた。

第1章 「さかさまになる会社」
第2章 「覚悟」――何のために生きるか
第3章 「信念力」で仕事をする
第4章 「知識力」を磨け
第5章 「つながり力」を拡張しよう
第6章 豊かな人生のために

『ワークシフト』の1)に第4章、2)に第5章、3)に第6章が対応する形だ。私は「覚悟」「信念」など内見的な角度から書いたが、『ワークシフト』は環境変化から説き起こしている。拙著の第1章は「環境変化」だが、ここでの厚みは、『ワークシフト』が数段上回る。

とにかく、「仕事の未来」という点では、視点もいいし、非常に広く目配りをしていて、いい本だ。

ただ、長い。せっかちな私なら、この半分で書きたい。

私が書くなら、『「仕事」から「志事」へ〜働くことのルネッサンスがやってきた』だと思う。

出来合いの会社に就職できるかどうかで必死になっている諸君は、ぜひこの本を読んでほしい。結局こうなるだろう。

私は1972年に就職したので、幸いにも終身雇用の枠組みでサラリーマン人生を送った。
でも、60歳になっても知力・体力は衰えないと思ったので、40代中盤ぐらいから、定年後に備えて、『ワークシフト』の1)から3)までを実践した。

その結果が今だ。文章講座と地域おこしで、充実した毎日が続いている。申し分なしだ。まだ10年はこのペースでやれそうだ。

「寄らば大樹の陰」ではなく、「自分の足で歩いていこう」である。

さあ、もうひと頑張りだ!!