メディアの完全敗北から完全勝利へ
 (「みんなで考える情報通信白書」への投稿)


 完全敗北だったメディア


 2011年3月の東日本大震災は、メディアにとって「完全敗北」だった日として記憶されるべきだ。
 最初に「3-6メートルの津波」という情報を流し、そのあと「10メートル以上の津波」に訂正したが、被災地の住民の多くが、その情報を軽視した。あるいは知らなかった。
 周知徹底が足りなかったということは、行政やメディアの責任が大きく。NHKは反省番組を作り、こうした情報の流し方を改善するとしている。
 一方で、最近の頼るべきメディア(財布より優先するという人が多い)である携帯電話は、中継施設が津波にのまれたり、集中局の停電などで長時間途絶した。また震災直後は輻輳(ふくそう)によってかからなくなった。
 以上のことについて、メディア自身が反省し、対策を打とうとし、携帯電話のパケット通信を利用した災害時専用サービスのように実用化されたものもある。
 しかし、このようなサービスは、10年後20年後に「小手先の処置」といわれるだろう。
 つまり、現在のメディア構造が基本的にピラミッド型(ヒエラルキー型)であることが、最大の問題点だと私は指摘したい。
 今の民主主義が、国民を統治するための偽善システムだということと相似形だ。

 住民は統治される対象ではなくて、国家の主役であり、それぞれが自己実現する権利を持っている。
 ところが、市民革命を経験しなかった日本は、徳川時代幕藩体制の思想から脱していない。「住民が主役」にはなれていない。
 メディアの構造もそうで、放送は不特定多数の視聴者、新聞も実質不特定多数の読者に対して、「上意下達」式の情報をばらまくだけである。
 象徴的だったのが、NHKの生活情報である。どこで食糧が配られている、どこで水が飲める・・・などの情報を垂れ流す放送に対して、自分の地域のことが知らされるまで2時間も3時間もラジオを聴いている視聴者がいるというのは、「想定外」であり、発信者の傲慢だ。


 メディアの主役は利用者


 21世紀の決定的なテーマとして、「メディアの主役は利用者」という大原則を確立してほしい。
 私は、2009年に『2030年 メディアのかたち』という未来予測の本を書いた。結論はそこに書いた通りだ。
 つまり、現在のメディアは中央集権型の「1対多」なのだが、未来メディアは「多対1」型の利用者が主役の構造になるということだ。その理由はたった一つ。「情報洪水」が起きたからだ。
 これまでは希少な情報を多数の利用者に分配することしかなかった。統治者は自分に情報を集め、被支配者に情報を小出しにすることで、統治を正当化しようとした。しかし、シェアされるべき情報はたくさんあり。それを行政などが利用者のためにほとんど活用していないことは、今回の震災ではっきりした。放射能汚染の予測を行ったSPEEDIの例が象徴的だ。またインターネットによって、民間の重要情報がおびただしく発信されている。
 情報はたくさんあることが重要ではなくて、必要な人に必要な情報が届くということが大事なのだ。


 さかさまの情報配置が必要


 以上の様な認識に立てば、現在の情報伝達の仕組みはとんでもない勘違いだとわかるはずだ。つまり、必要な時に使えるように情報が配置されていない。
 たとえば、ヒマラヤの高山に登山することを考えよう。ふもとの村から出発して、高度4000メートル前後にベースキャンプを起き、そこからキャンプを3-4個作って、最後がアタックキャンプ。そこからリュックを担いて頂上を目指す。
 そこでの食糧の配置のように、本人が常時持っている情報、市町村やかかりつけの病院などが持っている情報、都道府県が管理している情報、国が管理している情報が、災害時にすべて、本人の安全・安心のために動員されなくてはならない。
 このことをスムーズにやるために、国民番号制度は必須だ。
 たとえば、腎臓が悪く、人工透析を受けている患者などの場合、かかりつけの病院が被害にあったら、引き受けてくれる別の病院はどこで、そこに搬送される手順を本人と病院側、行政が把握している必要がある。


 5W1Hの本質的な意味


 5W1H(いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どのように)は、ニュース記事を書く時の必須条件だが、情報をどう扱うかについてのチェック項目でもある。
 人工透析患者の救急に対して、その患者について、いつ、どこで、何を、どのように・・と考えて、その場所、その時点での適切な情報が、本人と、救助側にないといけない。
 翻って考えると、情報にはすべて属性がある。岩手県釜石市の病院の情報は、東京都世田谷区では全く必要がないが、周辺の市町村では必要な情報だ。
 つまり、情報をスムーズに伝達するには、その必要情報をピックアップする体系が必要なのだ。そのことが現在の情報伝達システムに決定的に欠けている。
 本人の住所のGPSデータと病院の所在地のGPSデータがわかれば、その関係度がわかる。医師の勤務時間がわかればよりベターだ。
 つまり、多くの情報に、時間、場所、何のためのものか、誰のためのものか・・・というタグがついていれば、ハンドリングは革命的に楽になる。
 そのような情報倉庫を、市町村レベル、都道府県レベルに配置し、しかもバックアップも完備しておく。そうすれば、災害時にそれらを適切に動員して、対応できる。


 情報体系を抜本的に見直そう


 個人情報保護法に見られるように、近年、欧米流のプライバシー概念が優勢になったために、必要な時に情報が使えないという事態が生じている。
 そのことで、本人の生命が危険にさらされるとしたら、その責任はだれがとるのか?
 国や地方自治体は、住民の生活を守る義務がある。そのことに照らして、非常時に個人情報をどう扱うかの基準が必要ではないか。
 情報が分断されて危険度が増すのは、どうみても進化ではない。必要な時に、必要な情報が安全・安心のために総動員されてこそ文明国家ではないか。
 以上のように、「上意下達」の体系ではなく、行政が、住民の安全・安心を守るための奉仕者という観点から、どこに情報を起き、どの時点で、どのように活用するか・・・そこをしっかり考えてほしい。


 平時にも使える「多対1」システム


 災害時を想定した「住民本位の情報システム」は平時でも活用できる。
 現在は異常な情報氾濫社会だ。私の郵便受けには、毎週100枚以上のチラシが投げ込まれる。新聞の折り込みも1週間で厚さが1-2センチになる。ざっとみて捨てるが、廃棄率は99%を超える。子供のいない家庭に進学塾のチラシは不要だ。住み替えを考えていない人にマンションのチラシは要らない。
 一方で、スパムメールも1日平均20本ぐらいくる。これも不要だ。
 こうした無駄が、様々なサービスのコスト増を招いている。バカげた経済だと言わざるを得ない。
 必要な人に必要な情報を届ける・・・考えてみれば、企業の役員などに秘書がついているのは情報のフィルタリングが必要だからだ。本人がいつも電話に対応していたら仕事にならない。
 そういう意味で、今後の情報伝達の中で、「電子秘書」という考え方がキーポイントになる。情報の前さばきを自動化するという発想だ。
 我が国の情報通信政策は、どちらかというと業者寄りで、利用者や住民の視点が薄い。「チラシは公害」というぐらいの発想があっていい。チラシに埋もれて、行政からの重要書類が消えてしまったらどうにもならない。必要なものと不要なもの・・・そこを判別することについて、もっと敏感になるべきだ。


 サービス・コンテンツレベルの情報政策を


 国家としての情報政策はどうしても、社会インフラの整備にシフトしがちだ。しかしインターネットがどこでも使えるようになって、そうしたインフラが国家の発展に十分寄与できているのか・・・という疑問がある。
 「インフラ整備から利活用へ」という方向が21世紀に入って強まっている。それは、リテラシー教育だったり、キーマンの育成だったりするが、一方で、ここで述べたようなサービス・コンテンツレベルの総合体系を考える必要があるのではないか。
 そのすべてを、国が担えというのではない。その体系の中で、個人がやること、民間の業者がやること、行政がやることを区分して、トータルに個々人の安心・安全・効率的なアクティビティを保証していく・・・今後の情報通信政策は、その方向であってほしいと強く願っている。
 このことによって、大震災時のメディア完全敗北を、世界最強のものに大転換し、それは世界中に輸出できる製品・サービスの母体になると、私は信じている。

 2012年4月5日

     坪田 知己(メディアデザイナー、京都工芸繊維大学特任教授)