松岡正剛氏の『知の編集工学』に感じた違和感

松岡正剛氏の『知の編集工学』(朝日文庫)を読んだ。面白かった。でも違和感は解消されない。

年来、松岡正剛氏とか西垣通氏の「情報」についての言説に相当の抵抗感があった。
松岡氏は、無類の読書人であり、博覧強記である。それで、彼の書く文章は、いつもペダンティックで、「わかりやすく、よみやすい」を尊重してきた私には受け入れがたいものがあった。

『知の編集工学』は、彼が「編集工学」を志した動機と、その目指すところを書いた本である。
 私も「情報は編集されないと、役に立たない」とか、「編集力こそがコンテンツの価値を高める」と年来強調してきただけに、この本は、気になる本だった。

 冒頭の「編集はどこにでもある」は、その通りだ。私は編集のポイントは、「プライオリティ」「一覧性」「読者のコンテキストとの親和性」だと考えており、テーブルの上の物の配置とか、パーティーのセッティングや進行なども編集だと言ってきたので、違和感はない。
 一番納得したのは、「経済と文化を重ねる」の項目だ。機械的な送受信と人間的な送受信の差の問題をさらに展開して「エディティング・モデルを交換する」という発想はいい。
 「経済と文化を切断するな」という主張もいい。「『聞き耳を立てる第三者』こそが、たがいの商品価値を新たな情報価値として編集する、最初の<経済文化のエディターなのだ>」というのは、「『目利き』が市場の盛り立て役になる」という私たちの主張そのものだ。

 「歴史の中のエディターシップ」という項には、17世紀末に英国で流行したコーヒーハウスの意味づけが書いてある。ここで「コーヒーハウスはジャーナリズムと株式会社と政党と広告と犯罪とクラブをつくった」という解説は興味深い。
 これは現代において、blogとSNSが構築しつつある文化と微妙に一致しているような感覚にとらわれる。

 そのほかにも、いくつも発見があった。
 とはいえ、最後になって、やっぱり違和感が残った。

 なぜなのか考えてみた。

 松岡氏も私もプロの編集者だった。私は新聞と雑誌、松岡氏は雑誌と書籍の編集者だった。

 しかし、私がジャーナリストになったのは、「社会を再設計したい」という動機からだった。父が特攻隊員だったり、幼時に広島で過ごして、原爆の災禍を知ったことが、コミュニケーションを通じての平和の達成という目標になった。ということで私は、編集を「伝える技術」としてみてきた。
 「世界は進歩する」と私は考えている。進歩の原動力は人間の欲望である。その欲望を調整するために、国家とか企業とか、様々な社会システムがある。この社会システムが健全であれば、多くの人が自分の潜在能力を顕在化させ、自己実現ができる。そういう社会を再設計したいと考えてきた。

 一方で、松岡氏は、私の目から見ると、「編集に埋没する自分の喜び」を語っているように見える。彼の編集工学は、編集そのものが目的化している。編集的世界観の獲得が編集工学の目的になっている。
 「世界を編集する」ということは、古来、哲学や宗教がやってきたことだった。編集工学研究所の人たちの話を聴いていると、何か宗教の布教活動のように聴こえてしまうのは、私だけではないだろう。

 要するに、認識派と実践派の違いではないかと思う。松岡氏は膨大な知識宇宙を編集的世界観で記述したいと思っているようだ。私は、編集技術を磨くことで、コミュニケーションをスムーズにして、「情報共有による協働」という形で、自立分散協調型の社会を実現していきたいと思う。ということで、私にとっての「編集」は、あくまで道具であり、技術なのだ。

 この本から学んだことは少なくない。そこから新たな社会設計の知恵も出てきそうだ。もう一度読み返して、私のエディティング・モデルの中に、この本の知識を取り込みたい。